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711 恵比須神社(えびすじんじゃ)

鎮座地:福津市西福間3丁目30-24
     (旧福間町字福間浦)
行政区:緑町区
祭神 事代主神(ことしろぬしのかみ)
祭・行事 1月3日 玉せり
漁師の祭りで、昔は正月の15日まで漁止めで、その間は直方方面に酒の仕込みの手伝いに働きに出ていたので、11日が「玉せり」の日だった。
1月10日 恵比須祭り
「恵比須さま」は海の神様で、福岡市博多区・恵比須神社の「十日恵比須」と同じ日に、諏訪神社の神主により執り行われる。第2次世界大戦後は衰退したが、今も福笹やくじ引きがあり直会もする。
由緒 不詳
境内社 なし
文献 【筑前国続風土記附録】に「夷二社・ハマ、南ノ蛭子北ノ蛭子といふ」と記載。
【福岡県地理全誌】に「福間浦蛭子神社・浜」と記載。

「玉せり」の文献
【福間町史明治編】に「玉競り祭・・・南、北、中の旧浜三町(現南、緑町)の若者が長い伝統を受けつぎ元来正月十一日に行われていたが時代の流れで正月第一ないしは第二日曜日になった。
由来、起源は詳らかではないが諏訪神社元大澄宮司が古文書より推測したものによると‘玉取り恵比須に上げてあった玉があるとき落ち、浜浦の人達がわれもわれもと競ってもとの場所に上げようとした。’ことに由来しているらしく二、三百年の歴史があろうと云う古い神事である。
昭和三十五、六年頃までは海岸で南、緑町の若者達が競り合ったのちそれぞれ町内の各戸に玉を納めてその家の繁栄を祈願、神酒で玉を清めて練り回っていたが現在は格戸回りはしていない。
箱崎の玉競りとは江戸時代、共に黒田藩の浦奉行下にあり同じ浦(海辺の、漁村)行事としてほぼ同じ由来を持つものと考えられる。」と記載。

【福間町史通史編】に「福間浦の玉競りは、箱崎や姪浜の「玉せせり」と違って「玉せり」と呼ぶ。期日もかっては正月十一日であつた。この日は近世まで「帳はじめ」の日であり、大福帳や日記などを書き始める日であった。福間浦の玉せりはその帳はじめを祝う行事でもあったのだろうか。」と記載。

【ふるさと文化財探訪記】に「玉せり・・・昔は十日恵比寿祭の翌日、一月十一日に行われていたが、今では筥崎八幡宮(福岡市)の「玉せせり」と同様、正月三日に行われる。
この玉せりの大玉は松材の心で作られ、古い玉と新しい玉とが漁協事務所の二階大広間の壇上に飾られている。古い玉は直径三一センチ、重さ十四・七キロ。古色すぐれて艶やかである。その一部が欠損しているが、以前は一五キロを超す重量感あふれる大玉であった。新しい玉は、古い玉と同様、直径三一センチであるが、重さはやや軽く一一・六キロである。昭和三十五年頃までは、古い玉で玉せり神事が催されていた。また、浜三町の各町ごとに玉があって、その町内の家々を回り、「祝うたあ」といって神棚にコツコツと玉を当て、御神酒を振りかけてもらうおめでたい「玉入れ」の行事も行なわれていた。・・(福間町史明治編の記述・中略)・・筥崎八幡宮の「玉せせり」は有名であるが、このことについては貝原益軒の「筑前国続風土記」にすでに記載されている。その編者が元禄時代(1688〜1703)であるから、それ以前から催されていた古い神事ということになる。
福間浦の「玉せり」も、筥崎の「玉せせり」も同類型のものであり、藩政時代、粕屋、宗像、遠賀の三郡の漁村を統轄する箱崎触れの所管内にあった関係で、福間浦にもこの玉せり神事がもたらされたのであろうか・・・。」と記載。 
  
コメント オゴクラ(石祠)の中には、50cm位の黒っぽい長い石に赤いペンキで「恵比須大神」と記されたご神体が祀られ、手前にフジツボが付いた海藻の枝が供えられている。
石祠の右側面には、「明治四十年丁未五月下旬・世話人8名(省略)、裏面には、「事代主神社・昭和五十六年四月吉日再建・福間浦共有世話人10名(省略)」と記されている。

【宗像郡誌】に、和田津見神社の境内神社に「字福間浦・恵比須神社」と記されているのがこの神社と思われる。
平成18年現在、同じ敷地に和田津美神社が左、恵比須神社が右に、同じ位の大きさで建っている。
鳥居は、大正3年8月に献設。扁額(額面)「恵比須神社」。
「玉せり」の玉は、緑町区と南町区と2つあり、それぞれ両区の公民館に保管されている。
江戸時代から伝わる「鳴門の朱盃」が、玉せりの神事で使われています(「ふるさと文化財探訪記」参照)。

絵馬 なし
文化財等 なし


鳥居扁額
御神体 同じ敷地に和田津美神社が左、恵比須神社が右に、同じ位の大きさで建っている