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平成18年現在、宗像神社がある敷地には、宗像神社の右に「三宝大荒神」、左に「天満宮」と「芭蕉塚」が祀られている。
宗像神社は、宗像市田島の宗像大社と同じ読み方だが、この辺りでは、遠慮して「宗像宮(そうぞうぐう)」と呼ばれている。
鳥居はない。神社は石祠で前方に扉はなく、「宗像宮」と書かれた白木の御神体入れが安置されている。
石祠の右側面には、「天保十一年庚子六月吉日福満山慶順房代・石工市次郎」裏面には、「徳重村大庄屋 石松半蔵、田島村大庄屋 立花五八郎、久末村大庄屋 城戸小三郎、下西郷村庄屋、原六右エ門、〃井原市兵衛、〃 井原唯右エ門、〃井原正右エ門、世話人 深川篤朗」と記され、裏面基礎石には、「明治○二年五月、○○○話人 井原健五、井原友○、高宮○郎、高宮○○」とある。左面の基礎石には、「下西郷村村長 今林孫十郎、神興村村長 倉田津九郎、上西郷村村長 中村清作」とあり、【福間町史明治編]に、「この3人はいずれも明治22年町村制施行当時の初代村長。上段の祠は天保年間の建立で、下段の石垣や基礎石は、明治年間に寄進になったものである。高さ約3m位で福間町に現存する石造りの弁財天社では最大のものである。」と記されている。
(*とすると現在は、宗像宮が朽ち果てたので、[宗像郡明細帳]に記された「垂跡弁財天」の石祠に、宗像宮を祀っているのであろうか。)
「三宝大荒神」
【筑陽記】に、「荒神社―福間ニアリ」と記載。
【筑前国続風土記附録】に、「竃神社―ムラウチ」と記載。
【宗像郡明細帳]に、「荒神社―四尺二寸・六尺二寸、瓦葺 福間町神体行基之作、毎月廿八日火防之祭福間町中ヨリ仕ル」と記載。
【筑前国続風土記拾遺】に、「竃神社―中町荒屋敷ニ在。福満山ト云、神体ハ行基ト云。毎月二八日火伏祭トテ 農人漁人会座シテ煨豆(イリマメ)を供シテ祀事アリ。社内ニ怪松一株有。又古木ノ梅樹有。」。と記載。
【福岡県地理全誌】に、「竃門神社―福間町ノ南側竃門屋敷ニアリ。神体ハ行基ニ作也ト云。毎月廿八日火伏祭トテ 農人漁父会座シテ 炒豆ヲ供シテ祭ル事アリ。社地ニ怪松一株アリ。又古木ノ梅アリ。」と記載。。
今は、‘おこうじんさま’と地元では呼ばれていて、7月28日の例祭は諏訪神社が執り行い、本町、緑町、南町の人が少人数であるが参列する。
「天満宮」
【宗像郡明細帳】に、「天満宮―三尺一寸・三尺五寸。神体行基之作。毎月二十八日火防之祭福間町中ヨリ仕ル。」と記載。
(*この文は、同じ敷地にある三宝大荒神の事と混同している)
【福岡県地理全誌】に、「福間浦天神社・竃門屋敷」と記載。。
「芭蕉塚」
【福間町史明治編】に、「芭蕉塚―弁財天社の東側にある平たい大自然石に曰く
天保十四癸卯年夏 ふみ月や六日も常の夜にも似す 芭蕉翁因百五十年遠忌建立 蓑生連 とあり、昔福間にも俳句同好会の会があって俳聖芭蕉を偲び建立になったもので蓑生連とあるにも亦深い意義があるのであろう。[ふるさと文化財探訪記]に、「境内の西側、奥まった葉桜の下に、ひっそりと東向きに芭蕉塚は建っている。
扁平長楕円形、硬質砂岩。全高百四三センチ、厚さ三一センチ。この自然石の表面に、筆太の見事な篆字体で深々と彫られた題字に「芭蕉塚」とある。その裏面には、天保十四(一八四三)癸卯年夏
芙美月や六日も常の夜にも似す
芭蕉翁因百五十年遠忌建立
とあり、今から約百五十年前、福間の俳句同好会「蓑生連」の人たちによって建てられたものである。
江戸時代後期、俳諧趣味の潮流は、福間の里にも及び、庄屋を始め村役や商家の間で俳諧興行が盛んになった。
俳聖芭蕉の百五十年忌に当って建立されたこの句碑裏面の撰句は、芭蕉の有名な「奥の細道」越後路の中にある。
越後の地に歩行を改めて、越中の国・市振の関に至る。この間九日、暑湿の労に神(心)をなやまし、病おこりて事をしるさず。
文月や六日も常の夜には似す
荒海や佐渡によこたふ天の川
この句の詠まれたのは、越後の国・直江津の宿といわれ芭蕉歳の元禄二(1689)年七月六日のものであった。
さて、この句碑を建てた「蓑生連」とは、どんな人たちだったろうか。当時、福間の代表的な俳人に、井原臥山(庄屋・源右衛門)がいた。天保十(1839)年八月三日に没した臥山の追善句集に、「露臺集(つゆのうてなしゅう)」というのがあり、その養子・南交(六右衛門)によって編集され、京都で出版された。現在、その原本の一冊が奈良県天理大学図書館に収蔵されており、貴重なものである。
この句集の序文は、京都の桜井梅室が書き、跋(おくがき)は、5反麻斗状、校正は落柿舎石外がしている。
当時、わが国では芭蕉の門流徘諧師で著名な人たちが名を連ねている。
「露臺集」序
○(秋)の七たひめくりて、さやかなる影をあふきては、(ちち)恋しと啼むし(虫)に、たくへて野に置あるは露ばかりの営ミにと起老堂麦(ヤブタバコ)なと、よしある草々を束ねて、手向(たむけ)くさとなして、取りあへす露のうてなと名つくる人は、筑紫蓑生の郷(さと)なる井原氏南交なりける。
平安 梅室閑人 識
また、追善俳諧寿仙の中に、
明日もあるものとおもへと秋の暮 臥山(遺吟)
手を折て汲む松の井の月 南交
萩よりも聲なき蘇鉄はひこりて 泉左
目見えのならぬ雇ひ六尺 器洋
など、宗像郡内の俳人たちの連句も相当数のせられている(以上「露臺集」より)。
さらに、句碑建立の翌年正月、京都は落柿舎の主・石外がわざわざ福間の地を訪れ「芭蕉塚」の前で、
松に来て七日はてらせ法の月 石外
と、臥山追慕の真情あふれる献句を詠んでいる。
このように、郷土の俳人たちは、いずれも芭蕉門流の俳諧を学び、芭蕉を敬慕した。中でも、最も芭風の俳諧に傾倒し熱心であった臥山の卒後5周年目に南交たちによって「芭蕉塚」は建立されたものである。
(以上、北原団地・木村斗俊隆氏「芭蕉塚考」による)。」と記載
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